本棚を見るのが好きだ。図書館や本屋の本棚も良いが、特に他人の本棚というのは格別だ。

図書館や大型書店の本棚は可能な限り網羅しようとするけれど、個人の本棚は偏りやこだわりがあって面白い。図書館には日本十進分類法があり、本屋にもそれぞれの分類の仕方があって、利用する人が探しやすいように規則性というものが存在している。けれど、個人の本棚にはそれがない。持ち主の都合の良いように並んでいたり、積んであったりする。見る方からは意外な並び方でも、持ち主からすると当然の並び方だったりして、そのギャップを読み解くのも楽しい。

おおげさかもしれないが、本棚を眺めることでその持ち主と対話している感覚に陥ることがある。例えば、上野千鶴子が「本棚を人に見せると人格がわかられてしまうから、自宅は絶対に見せません。自宅は別人格なんです。ほほほ」と言ったり、石山修武も「だいたい僕らの先生からは、他人に本棚を見せるな、といわれましたよ。そいつに全部自分をわかられちゃうから」と言ってるくらいだ。好きな作家の本棚を拝見してせめて擬似対話をしてみたいという欲求も、あながち突飛なものではないだろう。

 

そんなことを考える人が多くいるからだろうか。著名人の書斎を紹介した本というのが結構出ている。

磯田和一の『書斎曼荼羅 1』と『書斎曼荼羅 2』はカラーイラストでタップリと、内澤旬子の『センセイの書斎』はモノクロイラストながら細かい字でびっしりと、著名人の書斎を紹介してくれている。

また、ヒヨコ舎編の『作家の本棚』や宇田川悟の『書斎の達人』と『書斎探訪』は、写真が載っていて本の背が判読できるのがありがたい。ただ、見取り図がないのが残念。

一味違ったものでは、『Number 761号』だ。これにはアスリートの本棚が載っている。長谷部誠の本棚は一見の価値ありだ。

 

これらの本を開くと、まず本の量に圧倒される。

林望、渡部昇一、佐野洋の書斎には移動式書架があり、まるで図書館のようだ。阿刀田高のも元国会図書館の司書なだけあり図書館のような佇まいの書斎だ。住まいを私設図書館にしてしまった石原祥行のような強者もいる。

また、石田衣良の書斎のようにモデルルームと見まごうばかりに整理されているのもある。

 

そんな整理された書斎がある一方で、どこもかしこも本棚にうめつくされてしまった山田風太郎や有栖川有栖のような例もある。喜国雅彦は自分で本棚を作ってしまうのであらゆるサイズの本がぴったり並べられている。

もっと極端なものになると、本や本棚にあるのではなく、階段にもトイレにもそこらじゅうに本が積み上げられている鹿島茂や、資料で床が見えない佐高信のようなケースもある。

だが極めつけは、本棚だけでなく床にも本が背を向けて並べられていて、本の背の上を歩ける藤野邦夫の書斎と、内藤陳の本の山脈だろう。『書斎曼荼羅1』と『書斎曼荼羅2』に収録されているのでぜひご一読を。

個人的には、こちらの整理できない方々に一方的な親近感を感じてしまう。縄田一男の「知らない間に本やテープが交尾でもするんですかね、なんだかどんどん増殖しちゃいましてね」という言葉に頷きつつ、本がどんどん繁殖していく『本にだって雄と雌があります』というマジック・リアリズム小説を思い出した。

 

その他、『私の本棚』には児玉清や金子國義など23名の本棚にまつわるエピソードが収録されていて、それぞれの本棚への思い入れの深さについつい頬が緩んでしまう。

今では当たり前のように使っている本棚だが、そんな収納法も書物が生まれた当初からあったわけではなくて、そこら辺の歴史的経緯は『本棚の歴史』に書かれている。

東洋だと、紙が発明される前には木簡や竹簡を使っていたし、西洋では羊皮紙を使っていた。もしも紙が発明されなくて、羊皮紙や木簡のままだったら、書物は冊子体ではなく巻物だったわけで今のような本棚にはなってなかったのだろう。

また、冊子体の普及にともなって今のような本棚になってからも、今のように背を向けて並べられていたわけではなかったり、鎖で繋がれていたり、そんな本の収納の歴史が書かれており、大学の講義で教わったのを思い出した。

 

ちなみに、西洋では中世くらいまで黙読の習慣がなかったそうで、黙読は不道徳なこととされていたそうだ。

日本でも黙読が一般的になったのは明治以降かららしいけど、時代劇などで侍が書見台で黙読しているシーンというのはフィクションなんだろうか?

それともこちらに聞こえないくらいの小声でブツブツ音読してるのだろうか?

 

 

のま・つとむ●東京生まれ。米子在住。学校図書館に勤務。暑さも峠をこえたようで朝晩は涼しくなってきました。読書の秋ですね。それにしても先日の大雨はすごかった……。近くの川も氾濫するかのような勢いでした。