好きなものに正直に、新しい「かわいい」を生み出してきた女性たちが主人公の物語「交差点のヒロイン」。
「ゴーストライターならぬ、エンジェルライター」がコンセプト。憑依するというより、守護天使のように、その人に取材し、共感をもって、物語を書きます。
 
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今回のヒロインは、イラストレーターの田村セツコさん。
1938年に生まれ、1950年代後半より少女雑誌で挿絵やファッションページを手がけ、
『りぼん』『なかよし』『いちご新聞』などで、かわいいファッションやライフスタイルを提案する連載が一世を風靡。グッズなども当時の女の子たちの人気アイテムとなりました。
今も現役で精力的に活動を続け、その“かわいい”イラストと“おちゃめ”な生き方が、さまざまな世代の女性たちを魅了しています。
少女時代、駆け出しの時代、イラストレーターとして活躍を始めた時代、そして現在……4回にわたって、田村セツコさんの物語をお届けします。
 
 
第1話 郵便屋さん、ありがとう
第2話 苦労してこそヒロイン
第3話 締め切りが恋人
第4話 ブルーとバラ色のワンダーランド
 
 
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第1話 郵便屋さん、ありがとう


 
窓の外から吹き込んでくる風といっしょに、思いがふわふわと空へ飛んでいく午後の教室。
椅子に座ったまま、机の脇に掛けたかばんの内側のポケットに、そっと手を入れてみる。かさっとした紙の手ざわり。
先生に気づかれないように、さりげなくかばんの中をのぞきこんで確かめる。はがきが1枚。
やっぱり夢じゃない。わたしの秘密。わたしの宝物。
――この手紙が、わたしをあの窓の外の、誰も知らない世界に連れて行ってくれるかしら。
ていねいにかばんを閉めると、セツコの右手はおもむろに鉛筆を握りしめた。
数学のノートの上で、セツコの指先から生まれた女の子が目を伏せる。女の子の髪はくるくるとカールして、ノートの右から左へとなびく。にじんだ鉛色の線が、だんだんと金色にゆらめいてみえてくる。結んだリボンからはバラの花が咲いて……
「ふふっ」
思わず笑いがこぼれる。
「田村さん?」
先生がじろりとセツコを見る。
「あ、ごめんなさい。あの、今の公式、とてもおもしろくって」
教室のみんなの不思議そうな視線を浴びる。でも、セツコにはそんなの全然気にならない。ふだんはまじめに授業を聞いているセツコでも、今は手紙のことで頭がいっぱいだった。
 
 
終業のベルが鳴ると、いてもたってもいられなくて、セツコは教室を飛び出した。冷たい風が頬に当たっても、寒さを感じないほどからだが火照っている。
明日はやっとお休みの日。あの手紙が届いてから、週末までがとても長く感じた。
「あなたの作品を、一度見せてください。松本かつぢ」
一文字一文字の形まで覚えるくらい、何度も読み返した手紙。
「明日、うかがいます」
歩きながら、セツコは手紙にそうつぶやいてみる。
 
 
松本かつぢ。
少女雑誌の売れっ子画家で、セツコの憧れの先生だ。
どうしてそんなすごい人から手紙が届いたのかというと、セツコがファンレターを出したからだった。
たまたまめくった少女雑誌に、「憧れの先生にお手紙を出しましょう」という企画の住所録がついていたのを見つけたのが、そもそもの始まり。
――そんなことができるのね!
セツコはどきどきしながら、住所録をめくってみる。少女雑誌で人気を誇る、そうそうたる名前がそこにずらりと並んでいる。
セツコは「松本かつぢ」という名前に目をとめた。
――この先生だわ。
松本かつぢ先生の絵の好きなところは、かわいいだけじゃない、どこかクールで、エレガントでモダンな画風、そしてあざやかにおどるようなペンさばき。
セツコは往復はがきを用意して、まず松本先生の絵がどんなに好きかを綴った。
――でも、こんなこと、先生ならきっと誰からも言われていることよね。なんだかおこがましいかしら。
セツコはそれに続けて、絵を書くのが好きなこと、絵の仕事に憧れていることも、簡潔に書いた。
――忙しい先生なんだから、お返事なんて期待しないわ。
そう自分に言い聞かせながら、それでも往復はがきにささやかな期待をこめて、セツコはそれをポストに入れたのだった。
――郵便屋さん、よろしくお願いします。
 
 
ふつうの高校に通ってふつうの勉強をする、ふつうの女の子。
そんな今までと変わらない毎日が、今までよりも少しだけ、刺激的になった。からだの一部だけは、新しい世界を歩いているような感覚。
それから数週間と経たないある午後のことだった。
学校から帰ってきたセツコが家のポストを開けると、セツコ宛てのはがきが一枚入っている。
ドキン。
……まさかね、と平静をよそおい、ゆっくりと差出人を見る。四コママンガの最初のコマから最後のコマへと視線を下ろしていくように。
「松本かつぢ」
セツコの目はびっくりした猫みたいに大きく開いた。雑誌の中で何度も見た字が、そこに書かれている。心拍数が上がるのをおさえきれないまま、はがきを裏返す。
「あなたの作品を、一度見せてください。松本かつぢ」
大好きな絵によく似た、おしゃれな文字。
セツコはやっと、大きく深呼吸した。そして心の中で叫んだ。
運命の神さま!そしてはがきを運んでくれた郵便屋さん、ありがとう!
平凡な往復はがき一枚で、憧れの先生と自分が青空を超えてつながったような気分。
それが、セツコのかばんにいつもしまってある手紙だ。
 
 
「この子は紙と鉛筆さえあればおとなしいの。本当にお金のかからない子」
お母さんはセツコのことをよくそう言った。
いつのまにかそうなっていたのだ。お父さんの転勤で、セツコは幼いときから転校を繰り返し、やっと友達ができたというところでお別ればかり。
紙と鉛筆だけが、いつも淋しさをなぐさめてくれる、いちばんの友達だった。
奇想天外でちょっとこわい童話の登場人物たち、赤毛のアンやあしながおじさんの物語の中の、けなげで明るい少女たち……家にある紙という紙が、セツコのキャンバス。
子どもの頃のセツコは、戦争の影響で食べるものも充分にない生活の中にいた。戦争というものがなんなのかわからないまま、疎開先で質素に暮らしていたセツコは、物語の世界でいつまででも遊んでいられた。空想の世界には、セツコの欲しいものがなんでもあった。甘いお菓子、レースのリボン、話し相手になってくれる子猫。
やがて大きくなり、少女雑誌を読むようになったセツコは、「挿絵画家」という仕事があることを知る。
一世を風靡していたのが中原淳一先生だ。戦後の物のない時代でも、工夫しだいで美しく、かわいく生きることができるということ。可憐な絵と、美意識あふれる文章で教えてくれた。
――なんて素敵なお仕事なのかしら……
自分が挿絵画家になれると思っていたわけでもない。ただ、世の中にそんな仕事があるということが、セツコの胸をときめかせた。
いつしか挿絵画家は、セツコのいちばんの憧れの職業になっていた。
 
 
松本先生からのはがきの返事に、セツコはさっそく今まで描きためた絵をぱんぱんに詰めて送った。
誰に頼まれるでもなく、いつも描いていた挿絵の数々。そこにはセツコの好きなもののすべてがある。
ほどなくして、松本先生からの二度目の手紙が届いた。
そこには、「一度訪ねていらっしゃい」という返事とともに、先生の自宅までの地図が入っていた。
 
 
こうしてこの週末、セツコは初めて松本先生の家へ、絵を見せに行くことになったのだった。
ぴしっとアイロンをかけた白いブラウスに、チェックのスカートをはき、いつもより大人っぽく身だしなみをととのえる。
――松本先生って、どんな方なのかしら。きっと威厳のある、口ひげをたくわえたおじいさんなんだわ。
松本先生の字で書かれた簡単な地図を頼りに、お家を探す。召使いに案内されるような、角屋根の洋館にちがいない。
ほら、このあたりに、モダンなつくりの大きな洋館があるはず……きょろきょろしながら歩く。
――地図の通りだと、ここになるけれど。
セツコが経っているのは、純和風の家の玄関だ。確かに、表札には「松本」と書かれている。
深呼吸して、指をまっすぐに伸ばしてチャイムを押す。召使いのお出迎え……ではなくて、扉を開けてくれたのは、明るい奥さまふうの女の人だった。
「はじめまして。田村セツコと申します。松本かつぢ先生にお手紙をいただいて、絵を見ていただきにまいりました。
「あら、いらっしゃい。聞いているわよ。あなた、学生さんよ」
「お邪魔します」
どきどきしながら、一歩ずつゆっくりと廊下を歩く。
応接間に座っていたのは、想像していた白髪のおじいさんではなくて、ひょうひょうとしたおじさんだった。
――あの方が、松本かつぢ先生……。
セツコはますます、先生と話してみたくなってきた。
かばんからたくさんの絵を取り出して、先生に渡す。前に送ってから、さらに描きためた女の子の絵。
「送ってもらったものも、見てみたよ。いいところもあるようだね。やってみたらどうだい」
セツコは胸がいっぱいになった。そして今すぐにでも鉛筆を持って、もっと絵を描きたくなった。
挿絵画家になる。その夢がはっきりと浮かびあがったのは、そのときかもしれない。
「ほら、これ、よかったら使って」
そう言って松本先生がなにげなく渡してくれたのは、先生の絵で飾られた便箋と封筒。
――これを描いた人が、今、目の前に……。
セツコの声は、感動と戸惑いでふるえた。
「は、はい……ありがとう、ございます」
かわいらしいレターセットを受け取って、それからどうやって帰ったかは、夢うつつで覚えていない。
 
 
その日から、月に一度、松本先生の家に足を運ぶ生活が始まった。
夢のはじまり。18歳の冬だった。
一ヶ月間描きためた絵を見せに行くと、松本先生は描くハウ・ツーを教えるというより、もっとシンプルなヒントのような言葉をくれる。
あくる日もあくる日も、セツコは絵を描きつづけた。
高校卒業は、刻一刻と近付いている。
憧れだけに生きる少女のままでいられないことも、セツコは感じていた。
 
 
セツコは四人きょうだいの長女。見かけによらず慎重派なところもある。
うちには子どもが四人もいてたいへんよ、とお母さんがいつもこぼしているのを知っている。
少しでも稼いだほうがよさそうだ。
高校に届いていた求人の中から、セツコは銀行の入社試験を受けることにした。
 
 
「好き」の気持ちだけで飛び込んでしまった、挿絵の世界。松本先生に会うことはセツコにたくさんの刺激をくれるけれど、きちんと絵の勉強をしたことがないのは、少し不安でもある。
「デッサンの勉強って、やっぱりしたほうがいいのでしょうか?」
セツコは松本先生に聞いた。
「まあ、やれないよりは、やったほうがいいね」
先生の、鷹揚な答え。
「でも、デッサンも大事だけども、少女雑誌で仕事をしたいなら、なによりも大事なのは、女の子の顔をかわいく描くことだよ」
そう言って松本先生は、少女雑誌の画家としていちばん大切なことを、さらりと教えてくれたのだった。
まつげが長く、明るい笑顔の、みんなの憧れと共感を集める女の子を生み出すこと。
デッサンに気を取られると、どうしても顔は二の次になる。顔をおざなりにしない、とセツコは頭の中にメモをした。
 
 
松本先生は、画家の猪熊弦一郎先生の研究所で行われている、ヌードクロッキーのレッスンをすすめてくれた。
そこはプロの画家たちのトレーニングの場で、スケッチブックを持ったおじさま方が、態勢を変えながらせっせと手を動かしている。
部屋の真ん中では、肉づきのいい女の人が、一糸まとわぬ姿でポーズをとっている。恥ずかしくなって、セツコは思わず目をそらす。
――なんだかお餅みたい。私の描きたい女の子とはかけ離れてるわ。
セツコは女の人の鎖骨から上だけを、ちまちまと描いてみる。
「せっかくヌードのモデルさんが来てくれているのに、もったいないよ」
参加していたベテランの画家が、セツコに声をかけた。
「一枚の紙の中に、全身をどうバランスよくおさめるか、勉強してみるといいよ」
――なるほど……よし。
セツコは思いきって、紙の全体に大きくモデルの骨格を引いてみた。
あまりにもリアルなその裸体を見て研究しながらも、作品として描くのは、リアルよりもずっとかわいい女の子。その作業の中では、たくさんのアレンジを加えなければいけない。そうやって苦労しながら絵を描いていくうちに、力がついている実感が少しずつ湧いてきた。
 
 
もう一つ、内緒の修行、がある。
「セツコ、絵の勉強をしているなら、こんなものがあるみたいよ」
お母さんが見つけてきた、新聞のすみっこの小さな広告。そこには、「挿絵画家になりませんか?」という文句が載っている。それは挿絵の通信教育だった。
入会すると、定期的に用紙が送られてきて、詩や流行歌などの題を与えられる。そこからイメージした挿絵を描いて送ると、ていねいな批評と点数が送られてくる仕組みになっているのだ。
そのひそかな勉強は、セツコの自己流を磨き上げてゆくようで、なんだか楽しかった。
 
 
学校にいるときは、ふつうの女子高生。
でも、今はもうただの女子高生じゃない。松本かつぢ先生の弟子なのだ。デッサンを学ぶ生徒でもある。
そして、筆記試験と、面接試験を三回も受けて、セツコは銀行の人事部秘書室の内定をもらった。
空想しながら絵を描いてばかりいた少女は、今はもう、不思議の国の入り口にいる。
 
 

- TO BE CONTINUED -

 
 
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こんなふうに取材を重ねて、物語を書いていきます。
次回の「第2話 苦労してこそヒロイン」は5月15日に更新予定です。お楽しみに!

 
 
 
 
 


 
ranprofile大石蘭●イラストレーター・文筆家:1990年生まれ。東京大学教養学部卒、東京大学大学院修了。在学中より雑誌『spoon.』などで執筆。伝記的エッセイ『上坂すみれ 思春期と装甲』や、自伝的短篇『そんなお洋服ばっかり着ていると、バカに見えるよ』などを手がけるほか、著書として自身の東大受験を描いたコミックエッセイ『妄想娘、東大をめざす』(幻冬舎)などを刊行。現在もイラスト、文章の執筆を中心に活動中。(photo=加藤アラタ)

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