歩くのが好きだ。散歩道が「哲学の道」と名付けられた西田幾多郎のように何かを考えているわけではなく、特に何も考えずに歩く。考えを積み上げていくというよりも、どちらかというと捨て去っていく感じだと思う。特に良い考えが浮かんだ記憶はないのだが、印象的な風景に出くわすことがある。室生口大野駅から大野寺を経由して室生寺まで歩いた時に見た田んぼの稲の若々しさや、唐招提寺にお参りしたあとに線路沿いを歩いていたらふと現れた垂仁天皇陵の大きさとか、一昨日の夕食すら忘れてしまうような鳥頭なのにそれらの風景は不思議と忘れられない。のんべんだらりとなにも考えずに歩いているので、文字通り景色のほうが目に飛び込んでくるようだ。

 

思想家たちが歩くことについて考えると、本が一冊できてしまう。例えば、『社会契約論』などで有名なルソーの『孤独な散歩者の夢想』。最近のライトノベルにあってもおかしくないような長い題名だ。題名だけであれば、キルケゴールの『死に至る病』に並ぶ中二病っぽさを感じるけど、内容は晩年の孤独なルソーの自己省察が綴られた暗いものだ。ぼっちになって気に病んだルソーくんが脳内世界へ自分探しの旅に出る、ってなライトなノリではない。
他にも『森の生活』を書いたソローの『歩く』。英語の原題は「Walking」という簡潔なものだ。歩くことの喜びがつづられていて、文庫本なら散歩のお供に最適なのだけど、ハードカバーなので少々かさばってしまうのが残念。

 

小説家たちが街を歩いても本が一冊できあがってしまう。池波正太郎の『散歩のとき何か食べたくなって』や『池波正太郎の銀座日記(全)』などは食事に関する部分も多くて、話題にあがった店に食べに行きたくなる。おなかが減るので困る。

 

街歩きといえば、今でも「ブラタモリ」の再開を期待しているのだけど、『タモリのTOKYO坂道美学入門』は東京の坂道に焦点を絞った好著だ。それぞれの坂にこんなにも豊かな物語がひそんでいるとは知らなかった。
そんなふうに地形から歴史をたどる本が好きならば、『ちづかマップ』もおすすめ。古地図をたよりに日本橋、神保町などのいつもとは違った一面を紹介してくれる。

 

街歩きとグルメという組み合わせはそれこそ星の数ほどあるのだろうが、松重豊主演のドラマの原案だった谷口ジローの『孤独のグルメ』は外せないだろう。鳥取県出身の有名漫画家として、水木しげる、青山剛昌と並んで必ずあげられる谷口ジローだが、彼の作品を読むとその精緻な描写に息を飲むとともに、品の良い小説を読んだような読後感にひたれる。『歩くひと PLUS』などもしみじみといい。もし気に入ったら、『父の暦』や『遥かな町へ』なども読んでほしい。そしてまだこんな風情が鳥取の街に残っているうちにぜひ足を運んでほしい。

 

旅行のように通り過ぎるのとは違い、住んでみると好むと好まざるとにかかわらずその土地との間に濃密な時間が積み重なってしまう。
東京十二契』で野坂昭如は因縁浅からぬ土地との契りを描いている。戦後から高度成長期までのドタバタした感じがつめこまれている。前掲の池波正太郎が書いた神田、浅草、新宿などと比べてみるのもおもしろい。

散歩の途中にふと見つけた懐かしいものを集めたなぎら健壱の『町の忘れもの』は、画文集ならぬ写真文集とでもいえばいいのだろうか。著者自身が撮影した写真に2,3ページの短い文章が添えられた本だ。気取らず押し付けがましくない文章は読んでいて心地よい。手押しポンプの少し錆びた井戸など、身の周りから消えてしまったり、消えようとしている風景がこの本にはつまっている。東京でオリンピックが開かれると消えてしまう風景ってのはまた増えるんだろうな。少しさびしいな。

 

 

のま・つとむ●東京生まれ。米子在住。学校図書館に勤務。日野はずいぶん寒くなってきました。紅葉はまだまだなのですが、あっという間に色づいて、あっという間に雪が降って年を越すんでしょうね。